グループに参加して
久しぶりにグループに参加したので、感想を少し
ファシリテーターの役割
グループに任すか、ファシリテーター(リーダー)の専権事項かの区別はマニュアル化してもいいかもしれないと思った。物理的なグループのおかれている状況や、参加者の選定(人数)などはいろいろあるが、ある程度マニュアル化可能だと思った次第。
身体的なアイスブレーク
ふと整体の邪気を出すなんかやってもいいような気がした。整体協会 http://www.seitai.org/ は、その筋では非常に有名なところで、実績も豊富なんで、面白いとふと思ったがどうだろう。昔のエンカウンター系の人は、整体協会を知っているのが普通だったような気がするけど、今は、分断されているような気がする。日本人だったら一度は、活元会に参加するのがいいと思っている。
コミュニケーション的なアイスブレーク
2人組でやるのかなと思ったら一巡パターンだった。
昔やったJICE (http://www.rikkyo.ac.jp/research/laboratory/JICE/)のトレーニングで2人になって自由に話すというのがあった。いろいろ構造化のレベルはあるが、2人組で話すのは構成的エンカウンターでもよく使われる手法(ダイアード、2人組)なんで、今後取り入れたらいいのではとふと思う次第。
グループプロセス(ゴール) survival,develop,transform
survival,develop,transformを安定と変化の二分割はちょっと違うかという印象をもった。survival から、develop そして transform に移動になるのではないだろうか?
とりあえず、survival
survival をもうちょっと理論だてるといいのではないかと思った。敵か味方かというのがグループにおけるsurvival の基本な気がするが、どうなんだろう。理論的なヒントは、コンラート・ローレンツの攻撃などの動物行動学にヒントがあるような気がする。企業組織における派閥の研究など良いものがあったら参考にできるような気がするがあるんだろうか?
yes but について、リフレクションも
これは自分の体験だったので発見があった。yes but はよくないことだという前提でいままで考えていたが、よく行われるコミュニケーションのパターンなので、実はなんらかの意味があり、ある状況下では、有効な情報処理(コミュニケーション)なのではないかと思うようになった。普段のミーティングではごく当たり前に行われているコミュニケーションのパターンなので、今後、誰に対してどんなときに、yes but をしているかを今後意識してみたい。関連の手法としては、対話法の確認的応答がある。http://www.taiwahou.com/ リフレクションに近いので、もうちょい深めたいところ、ポイントは、毎回、リフレクションするかどうかあたりな気がする。
コミュニケーションの阻害要因について
私は、曖昧、冗長、矛盾といっている。原文でもこの3つのような気がする。複雑よりは、冗長がしっくりくるのだがどうだろう。阻害要因については、もうちょいつめたいところ。普段の仕事上のコミュニケーションで問題になるのは、ほぼ曖昧。現状では、曖昧をほぼ毎日、観察して、意識している。
any body else は、他の方はどうですか?
通常のミーティングでは、他の方はどうですか? がいいような気がする。
特に、2人で話こんでいるときには、皆さんより、2人以外というので、他の方は、が機能する気がする。なお、みんなという言葉を使うときには、演劇のスタニフラスキー第1の輪・第2の輪・第3の輪 http://better-job.at.webry.info/200506/article_2.html を参考にするといいかもとふと思った。
振り返り
いわゆる forced choice なんだけど、原文に忠実に5つになっているのはいいなと思った。ただ、参加者が、一度に覚えるのは無理みたいなのは、驚いた。自分が企画する会の締めに一言どうぞというときに、びっくり+発見(なんかおおと思ったことありますか?)があったらどうぞと使っている。
締め バイバイ
なんかいい感じがしたけど、ふと、日本人がよく行う一本締めってなんだろうと思った。普段おこなっている儀式の社会的、心理的な意味というのは、あまり考えていないというかわかっていないのではないだろうか
農業、工業の時代は良かったけど、知識産業の時代は
やり直しをしようと思ったら、
昔だったら(今でもそうかもしれないけど)農業をやるのが良かった。米は、一粒から、1200粒もとれる。農業はもちろんある程度面倒をみないといけないけど、植物は高性能のナノマシンだ。植物は製品を自律的につくりだす仕組みともいえる。高価な生産財と労働者が必要な工場とはわけが違う。二宮尊徳は、失った家督を、智慧を絞り熱心に農作業(水田開発)を行うことで、数年で取り戻した。荒地を耕し、新たに水田をつくり、苗はあまって捨てられた捨苗をつかえば初期投資もかからなかった。今、農業はそれほど効率的な投資対象ではなくなっている。経済の中で食料の占める割合はずっとすくなくなっているからだ。経済の主力は農業の次は、工業生産になった。第2次世界大戦が終わってからの日本は、まさに工業生産で経済が発展していった。ホンダ、ソニーはその象徴だった。そして、農業と同じく工業は雇用を創出していった。ただ、高価な生産財への投資が必要で、二宮尊徳のように少ない初期投資でなんとかなるようなものではなかった。インターネット以前の工業化社会で、二宮尊徳のように個人的な努力で経済没落した家督を取り戻そうとするなら、非常に狭い可能性ではあったけど、松本清張のように小説家になるという選択もあった。
知識社会は投資リスクが高い。
桐箪笥のようによい素材の家具の価値は、長い間続く。でも、最先端のPCやタブレット、スマートホンの寿命は短い。あっという間に陳腐化してしまう。知識もそうだ。IT関係の知識はすぐに陳腐化する。知識社会は、技術革新とともにある。新しいこと、そしてそれが確実な価値をもたらすことが求められている。つねに走っていないと倒れてしまう。変化の激しい時代になっている。次どうなるかわからないので、手とうつ必要はあるけど、どんな手が正解かはわからない。そういった中で、リスクを避ける日本の文化では、保守的になるのは当然だろう。ただ、危機意識をもった企業はフジフィルムのように、新しい分野にすすむことができる。大切なのは危機意識をもっているかどうかだろう。毎日の生活の中でも危機意識があるかないかは重要な気がする。
何を学ぶか? 小さな努力、大きな感謝
ITの世界にかかわっていて気づいたのは、すぐに活用出来る道具の使い方を覚えることが、リスクの少ない学びだというこだった。何か課題がでてきたときに、ほんの少しの努力でその課題が解決できるなら、大きな感謝を生み出す。どんな場合に、小さな努力、大きな感謝になるかというと、高価な商用ソフトウエアに対して、無償で自由に改変できるオープンソースを活用するのが、そのよい事例だろう。無償で使えるオープンソースソフトウェアで、いまでは、業務に使えるデータベースまでもまかなえている。商用ソフトウエアで収益をあげているマイクロソフトでさえ、組み込みの分野では、.NET Micro Framework というオープンソースを出している。ITの世界では、こういった無料で、強力な道具が一杯そろっている。ある程度普及した道具(例 オープンソースソフトウエア)は、エコシステムと呼ばれる経済圏を形成する。その道具をつかいこなす学習をしたものは、その道具のエコシステムを活用して対価をえることができる。ただ、すでに道具に習熟している人がいると、後からその道具を学んである程度つかいこなしたとしても、先行者と比べると評価は低くなるだろう。
道具も進化している。どの時点で、道具の使い方を学ぶかは難しい。
どうしたらいいのか? 待つのか、今やるか?
何かの道具を学ぶときに、待つのか、今やるか?は、難しいことがある。特にIT関連のソフトウエアやハードウェアのように常に変化している道具の場合には、特にそうだ。かつて存在したオフコンは今では存在しない。何もしないで寝て待っていたほうがいいばあいもある。いつやるかを正確に判断することは難しい。ただ、少し調べれば、大雑把な時間軸程度はわかるだろう。デジカメがでてきて、フィルムがなくなり、スマホに、カメラがついてデジカメがなくなる。その程度のことは、普段生活していれば気づくだろう。問題は、自分が対価をもらっている仕事の世界で、そういった変化に気づき、いつ行動を起こすかである。まずは、誰が考えてもこうなるだろうといういうことをきちんとおさえることが大切だろう。次に、このことを少しかんがえてから、今やるかを 考えてみたい。
日本語にはデータという単語がない。
データに興味をもったのは、ユーザが手作りデータマイニング
情報という言葉はあるのに、データという単語は、日本語にはない。データという言葉に私が関心をもちはじめたのは、2001年頃(当時のバズワードはデータマイニング)だ。それは、簡単なデータ処理ツールを使ったNHKの番組を見たときだった。番組でコンピュータの専門家として紹介されたのは、「情報武装」革命―“川下”からの流通情報戦略(1987)の著者 松田 康之さんだった。簡単なコマンドで、食品会社の業務システムを構築する話だった。その食品会社のページには、松田さんの情報ものっている。http://okayamafs.com/saiyou_system.html ユーザが手作りのツールで、ビジネスをきちんと行っている事例だった。
データと情報の違い
データと情報の違いは、単なるデータ(数値)の羅列という言葉があるように、割と明確だ。ノイズがなく数値(文字)としてきちんと判読できるまでがデータという単語の守備範囲だ。情報はデータに意味を付加したもの概念だ。日本人は単なるデータではなく、意味ある情報が重要だと思っているのではないだろうか? とにかくなんでもデータを集めるという発想はあまりないような気がする。なんでもかんでも集める博物館的なアーカイブの発想も一般大衆的にはあまりない気がする。伝統的には正倉院のようにずっと保存する発想もある。ただ、ビジネス上もデータベースを駆使して情報収集するというのはあまりおこなわれていない気がする。図書館で使うことが可能な日経テレコンが混んでいるという印象はあまりない。
データが価値ある情報になるとき(試行錯誤から、オープンデータ活用へ)
ビジネスプロセスのデジタル化が進展して、デジタルデータの集積が進んでいる。そのデータを活用できないかとは誰でも思うことで、データウェアハウス、データマイニング、そしてビッグデータとバズワードの波がなんどか押し寄せている。そろそろデータが価値ある情報になるのだろうか? データが価値ある情報になるとするならば、データを情報化するときの費用を十分に越える利益がえられる必要がある。実際にデータ分析をしてみるとわかるけれでも、分析費用に対して確実に利益がえられるようなことは結構難しい。特に、データをぽんと渡されて、はい分析してくださいと外部に分析依頼する場合は特にそうだろう。実際にデータを活用しているのは、ECサイトでの売上分析と、ゲームサイトでの課金分析だと言われている。データをもとに試行錯誤できるからこそ、データを価値ある情報に転換できる。ただ、最近は状況がかわってきている。公共データのオープン化がすすんできている。言葉としては、公開情報(オープンデータ)だ。例えば、店舗の売上情報に気象情報を付加すると新しい知見が得られる。公開情報との比較に基づきデータを情報に転換することが可能になる。これからビジネスで重要なのは、企業内のデータの分析だけでなく、公開情報のとの連携が大きいだろう。例えば、ECサイトでは、公開情報による消費者行動と、ECサイトの購買動向にずれがあるなら、そのずれをどう解釈するかにより売上を増やす知見をえることが可能になる。データが価値ある情報になる時代はもう少しすると来るような気がする。そのときは、どんなツールが活躍するのだろう。
毎日の会話(日本語を話すこと)
以前からコミュニケーションという言葉が気になっていた。気になっているのは、日本語でコミュニケーションに相当する言葉がないことだ。ないということは、もともと日本語の文化では、コミュニケーションに相当する概念がなかったのだろう。私達は、毎日、日本語を話している。価値の源泉が情報になるなら、毎日おこなっている日本語でのコミュニケーションの価値をあげることが大切なのではないだろうか? コミュニケーションという言葉はないけど、毎日かわしている会話の中で価値を作り出す可能性をちょっと考えてみた。
何をコミュニケーションしたらいいか? 無理せず、すぐにできて効果的なコミュニケーションはなんだろう。私達は、毎日挨拶をしている。挨拶をきちんとするだけでもいいのではないだろうか? 食事のときに、いただきます。ごちそうさまでした。と日本人はいうけど、他の言語に同様の言葉はあるのだろうか? ベトナム人は、日本人と中国人や韓国人とは簡単に区別できるらしい。日本人は、食事のときの仕草(ごちそうさま、いただきますのときの)が特徴的で、買い物したときに、ありがとうやどうもいった発言をするので簡単に分かるらしい。
素晴らしいプレゼンテーションに比べたら、毎日の挨拶は、大したことのないこともかもしれない。でも、すぐに誰でもできることで、それなりに効果のあることではないだろうか? 挨拶をきちんとすることで、その場の雰囲気を明るくし、人と人が信頼し、協力しあう関係を作り出すのに、貢献できるなら、それは素晴らしいことだと思っているがどうだろうか? そして、コンビニや飲食店で働いている中国人が、気持ちのよい挨拶(ありがとう)に数多く接するなら、日本人に対して好印象を持つ度合いが増えるだろう。
準備すること(続き)
決まっていて予測可能のことなら、準備はしたほうがいいにきまっている。世の中の仕事のほとんどは、予測可能なサービスを提供するためのものだ。だから、仕事術の本には、準備が大切だと書いてある。最近、少し真面目に仕事をするようになってきた。当たり前だけど、準備をして、仕事の課題を解決するのは、大切だと本当に思うようになった。準備とは、事前に予測できる事に対して、効果的にどう対応したらいいかの思考実験(仮説をたてる)だろう。そうすると仮説を立てる力が、重要になる。
どうやってその仮説を立てる力をつけていくかというと、メンタルトレーニングをするのがよいと言われている。簡単に言えば、どんなことが起こるかを想像するトレーニングだ。スポーツ選手はよく行っているが、ビジネスでも、商談前に行うのがよいと言われている。ただ、気になるのは、実際のビジネスの場では、きちんと仮説を立てて商談に望むことは減ってきているような気がする。相手がどんな人なのかをきちんと把握する気持ちも薄れているような気がするがどうなのだろう。総理にアドバイスする立場の人の話を聞いたことがある。外交で大切なことは相手のことを思って行動/発言することだとその人は講演で話してくれた。
相手のことを思うときに、何が大切かというと、相手が自分にとって大切かどうかだ。大切だと思う気持ちがなければ、相手のことを思うことは難しい。準備もそうだ。準備して行うことが大切なことだと思えなければ、質の高い準備をすることはできない。
譲れない一線
会議の質を高めるにはどうしたらいいかというのを最近考えている。どんな言葉を使うとミーティングが機能するのかと考えたときに、譲れない一線をたずねたらいいのではないとふと思った。これは外せないという条件があるときに、それを意識しないで会議をしていてもしょうがない。
譲れない一線とか、外せないことはなんですか? と尋ねたときに注意することは、その一線とか外せないという内容の意味をどの程度的確に把握しているかだ。例えば、スマホ対応ははずせないというときに、実は幅がある。その幅(程度)のどこに外せないところがあるかを掴むのが大切だ。すぐにやってほしいというときに、10分後なのか?明日なのかの違いは大きい。
譲れない一線がはっきりしたら、次にすすむことができる。その条件にどうやって応えるかかだ。それと、同様に重要なことは検証可能jなことだ。科学のように検証可能なこと、しかも、すぐに検証できることが重要になる。問題は、すぐに検証可能なことしか、わからないことだ。問題点を洗い出す時には、すぐにボロがでないかとうかは意味があるが、これで十分だというのを調べるには不十分だ。すぐにはボロがでなくても、時間経過の中でトラブルが発生する場合を検証することができないからだ。
長い時間軸でどんなことが起こるかは、実験できない。そこで思考実験をして代替にする。長い時間軸で考えることは、別の譲れない一線の出現になる、そしてそれは、現時点での譲れない一線と競合するかもしれない。
長期的な譲れない一線の割り出しさえできれば、多くの場合、十分だ。あとは、課題解決にどのくらい時間をかけるになる。
準備すること
中学生の頃、毎日、15分ずつだけど予習復習をやりはじめたことがある。そうすると成績はよくなった。今、思うと不思議な気がする。なんで自発的にそういった行動をとったんだろう。その時の気持ちは今は思い出せない。そして、今、仕事をしていて、準備不足や、もっと事前にわかっていたことだから先に手を打っておけばよかったということが多々ある。
今、何をしたほうがいいか、何をするのがいいかはわかっていることが本当は多いような気がする。ただ、もしかしたら宝くじにあたるかもしれないという現実逃避的発想が、そのときにすべきことを逃してしまう気がする。その結果、もう遅いということもあるけど、それでも最後の一瞬まで頑張るのが、大切な気がする。